国史跡 道後公園湯築城跡 The Ruin of Yuzukijo-Castle Site (Dogo Kouen Park)

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丘陵広場
丘陵広場_s

外堀土塁(西側)
外堀土塁(西側)

湯釜
湯釜
湯釜

句碑(小林一茶)

(くひ−こばやしいっさ−)

句碑(小林一茶)
句碑(小林一茶)
句碑(小林一茶)
小林一茶_s

寝ころんで 蝶泊らせる 外湯哉

小林一茶 


 寛政7年(1795)、俳人小林一茶は、その師二六庵竹阿の旅の跡を慕い、松山の俳人 栗田樗堂らを訪ねて、松山に来た。その旅日記(寛政7年紀行)によれば同年2月1日のところに「道後温泉の辺りにて」と前書きしてこの句がある。
 1996年は小林一茶(33歳)が松山に来遊して丁度200年になる。
 一茶の来遊は寛政7年(1795)と翌年の二度にわたる。最初の来遊のとき松山に俳諧で有名な栗田樗堂(47歳)がいた。一茶はこの樗堂と意気統合し、多くの句を残している。寛政8(1796)年には半年以上に渡って樗堂宅(二畳庵)に滞在し、その交遊は並々ならぬものがあったと想像される。

道後温泉碑

(どうごおんせんひ)

道後温泉碑
道後温泉碑
道後温泉碑
道後温泉碑_s

明治19年丙戌6月

湯築城資料館

湯築城資料館
湯築城資料館
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子規記念博物館

(しききねんはくぶつかん)

子規記念博物館

道後公園の一角に建つ博物館で、松山出身の俳人・正岡子規の資料や直筆原稿、遺品などを展示。「道後・松山の歴史」「子規とその時代」「子規のめざした世界」の3コーナーで構成された館内では、松山の風土や子規の交遊、人間性などを詳細に紹介するほか、「愚陀仏庵」の一室も再現されています。

石手寺

(いしてじ)

石手寺

四国霊場第51番札所であり、四国遍路の元祖とされる衛門三郎ゆかりの寺。728年に創建され、後に河野氏の加護を受けて隆盛しました。境内のほとんどの建築物が国の重要文化財に指定されているほか、運慶一門の作と伝えられる金剛力士像を安置した仁王門は、国宝に指定されています。

伊佐爾波神社

(いさにわじんじゃ)

伊佐爾波神社

1667年、時の松山藩主・松平定長により建立された、「八幡造り」の荘重な社殿で知られる神社。廊下の梁の装飾や柱の金箔など華麗な造りが特長で、現在は国の重要文化財に指定されています。また、江戸時代に奉納された和算額の所蔵も有名で、松山が西日本一の和算研究の地であったことがうかがえます。

道後温泉本館

(どうごおんせんほんかん)

道後温泉本館

明治27年に建築された和風木造の豪壮な外観で、平成6年には大衆浴場で初の国の重要文化財に指定されました。館内には「神の湯」「霊の湯」の2つの大浴場があり、湯上がりに休憩室や個室を利用すると、浴衣でお茶やお菓子をいただきながら温泉情緒を満喫できます。また、赤いギヤマン使いの「振鷺閣」や日本唯一の皇室専用浴室「又新殿」、夏目漱石が愛用したという「坊っちゃんの間」など、見どころも豊富です。

湯神社

(ゆじんじゃ)

湯神社

道後温泉の守護神として「大国主命」「少彦名命」の2神が祀られている神社。昔から、温泉の湧出が止まるたびに地元の人たちがここで祈祷を行い、現在も湧出は続いています。毎年3月下旬には、温泉湧出が順調なことを感謝する「道後温泉まつり」が開催され、大勢の見物客で賑わいます。

椿の湯

(つばきのゆ)

椿の湯

道後温泉本館の姉妹湯として昭和28年に新設され、昭和59年に改築されました。昔、聖徳太子がこの地に咲き誇る椿の美しさを褒め称えたという言い伝えから名付けられた「椿の湯」は、鉄筋のモダンな建物で、壁面には窓から湯と椿が流れ落ちる「からくり絵」が描かれています。

道後温泉駅

(どうごおんせんえき)

道後温泉駅

伊予鉄道城南線の終着駅であり、道後温泉の最寄駅。また、この駅の引き上げ線で坊っちゃん列車の機関車の方向転換が見られます。外観は明治44年建築の旧駅舎の復元で、夜間はライトアップされているほか、駅舎内には観光案内所やみやげ物店、飲食店もあり、道後観光の拠点的存在。

放生園

(ほうしょうえん)

放生園

江戸時代に松山藩主により造られた放生池を、昭和48年に埋め立ててできた道後温泉駅前の広場。園内には足湯や坊っちゃんカラクリ時計、句碑などがあり、観光客や地元住民の憩いの場となっています。また、夜にはレトロなガス灯がともり、温泉情緒あふれるスポットとして人気を集めています。

湯釜薬師

(ゆがまやくし)

湯釜薬師

749年に作られた全国最古の湯釜。1288年に一遍上人の書で「南無阿弥陀仏」と彫られ、1531年には河野通直が温泉記を彫らせたと伝えられています。長らく養生湯として使われていましたが、道後温泉本館の新築を機に引退となり、昭和25年に現在地に移り祀られました。愛媛県指定文化財。

道後公園西口

道後公園西口

勤王志士碑

(きんのうししひ)

勤王志士碑

御大典奉祝記念碑

(ごたいてんほうしゅくきねんひ)

御大典奉祝記念碑

 秋山好古の揮毫の「御大典奉祝記念」の碑。”御大典”とは、天皇が即位することで、昭和3年に、大正天皇の喪が明けて、晴れて昭和天皇が正式に即位されたことをお祝いし、建立したものである。
 好古は、近衛師団長をつとめた関係から、昭和天皇に拝謁する機会も多くあり、そのご即位を衷心より喜んでいたものと思われる。

句碑(正岡子規)

(くひ−まさおかしき−)

句碑(正岡子規)
句碑(正岡子規)
句碑(正岡子規)
句碑(正岡子規)

足なへの 病いゆとふ 伊豫の湯に
  飛びても行かな 鷺にあらませば

子規 


「昭和ニ十六年九月十九日 子規五十年祭」
 子規歌集「竹の里歌」の明治31年(1898)「故郷を憧ふ」九首のうち七首目の歌で、明治31年8月9日付けの新聞「日本」に載せられた。昭和26年には、まだ「竹の里歌」の原本が見つからず、子規の文字を一字ずつ集めてこの碑に刻んだのである。
 「もし私が鷺だったら飛んで帰り、足の病を治したいのに」という意味の歌であって、病床の子規の望郷の歌である。
 明治28年、松山愚陀仏庵から帰郷の途中の10月22日、大阪で結核菌のため左の腰骨が痛み出し、以後没年までの間、殆ど病床の人となり「足なへ」の状態であった。
 道後温泉には、その昔、足を傷つけた白鷺が、岩間から出るお湯に足を浸しているうちによくなったという伝説があり、歌の「鷺にあらませば」もそれに因んだもの。

伊予かすり創始頌功碑

(いよかすりそうししょうこうひ)

伊予かすり創始頌功碑
伊予かすり創始頌功碑

句碑(正岡子規・夏目漱石)

(くひ−まさおかしき・なつめそうせき−)

句碑(正岡子規・夏目漱石)
句碑(正岡子規・夏目漱石)
句碑(正岡子規・夏目漱石)

ふゆ枯れや 鏡にうつる 雲の影

子規 

 半鐘と 並んで高き 冬木哉

漱石 


 「冬枯れや」の句は,明治28年冬の句で、子規句集「寒山落木」及び「病余漫吟」 にも見える。この句は子規「雲百句」の一句で、子規が余戸の俳人森円月(1870-1955)のために、「愚陀仏庵」で書き与えたもの。子規の自筆拡大。
 「半鐘と」の句は、明治29年1月3日午後、子規庵で、鳴雪、(森)鴎外、瓢亭、 漱石、虚子、可全、碧悟桐と催主(子規)の8人が会しての初句会での漱石の句。 この句を後日、漱石が余戸の円月の家で同家にあった子規の書に応じて円月に送ったもの。この句は子規庵の句会の4点句(最高点)であった。
 この日、鴎外がこの句会に参加しているが、遅参しており、「霰」という題の

 おもひきって出て立つ門の霰哉

鴎外 

という句のみで、2点句であった。
 この碑は,国際ロータリークラブの第267回地区年次大会を記念して、昭和61年11月2日に建立したもの。

伊佐庭翁頌徳碑

(いさにわおうしょうとくひ)

伊佐庭翁頌徳碑
伊佐庭翁頌徳碑
伊佐庭翁頌徳碑

 伊佐庭翁は道後温泉の恩人である。道後温泉本館の改築、道後鉄道会社の創設、道後公園の整備充実、松山城の保存等、数多くの偉業を遺した。この碑の文字は郷土出身の文部大臣にして哲学者の安部能成の筆によるものである。

句碑(松尾芭蕉)

(くひ−まつおばしょう−)

句碑(松尾芭蕉)
句碑(松尾芭蕉)
句碑(松尾芭蕉)

温泉を むすぶ誓も同じ 岩清水

芭蕉 


 この句碑は、公園北入口から 山を 登っていくと中腹の杉の壇というやゝ平らなところにある。
 碑陰に、「翁廼二百年忌に当り」「蜂須賀秋岳立」と二行に刻んでいる。
 明治26年頃、道後町長伊佐庭如矢のとき、収入役越智卓三と蜂須賀岳蔵とが道後に遊園地を造り、神の湯の旧建物を用いて振鷺亭という茶屋を建てた。
 その時ちょうど芭蕉の二百回忌にあたったので、この句碑を建てた。
 この句は、芭蕉が元禄二年(1689)下野国那須温泉で呼んだものである。

皇太子殿下駐駕所碑

(こうたいしでんかちゅうがしょひ)

皇太子殿下駐駕所碑
皇太子殿下駐駕所碑
皇太子殿下駐駕所碑

「正三位勲一等男爵波多野敬直謹書」とある。
背面には「明治36年10月16日行啓 久保庄太郎謹訓」と記されている。

句碑(波多野晋平)

(くひ−はたのしんぺい−)

句碑(波多野晋平)
句碑(波多野晋平)
句碑(波多野晋平)

教へたるままに唯行く遍路かな

 この碑の除幕式は昭和37年11月23日行われた。79才の晋平も病躯をおして列席した晋平は松山で発行される俳誌(柿)を10年余にわたって主宰し、松山の俳壇の長老であった。晋平は、明治17年7月3日山口県萩市に生まれ、萩中学校を卒業、海軍兵学校を志願したが身長が足りず、断念し大阪商船入社、大正14年高浜支店に来て以来酒井黙禅に俳句の手ほどきを受け、塩崎素月の(葉櫻)や(ホトトギス)に投句虚子に師事して昭和20年10月(ホトトギス)の同人、20年秋酒井黙禅 あとを受けて(柿)を主宰し愛媛ホトトギス会長として昭和36年病に倒れるまで13年間その職にあった。昭和31年12月、古希を記念して句集(初凪)を上梓した。(初凪)の虚子の序に(永く松山に住み松山人に知己多く、松山の地理に精しく、松山人より松山を愛好し時によると松山言葉をつかう。)とある昭和40年5月3日没 80才御幸町千秋寺に眠る。

松山文学碑物語 鶴村松一 から

河野氏城址碑

(こうのしじょうしひ)

河野氏城址碑

「河野氏元越知氏、孝霊天皇の裔に出ると称す。応神天皇の朝伊予小市国造に任じられる後裔、居を河野郷に遷し以て氏とし高縄城に據り冶を伊予に布く承久の乱、河野通信、義兵を京畿に出して精忠を励んで元冠の後、伊予の師、河野通有有進撃不逞をたおして国難を救う、また一遍上人出て時宗を開き聖教ここに萬生に薫る。建武中興には土居通増、得能通綱支族より出て君の忠節に殉す。後更に居を道後に遷し湯築城を築く河野通直の時に至り豊臣氏の攻める所となりて滅ぶ。時天正十三年九月、正に六十余代1,300有余年亦なりと云うべし頃日慈光令教主。空覚尼この現地に巡錫しかつての桑海の変を悼む。同信相寄りここにこの碑を建立し以て世に河野氏の遺績を伝ふ。昭和十六年十一月建之空覚尼」

湯築城址の由来

(ゆづきじょうしのゆらい)

湯築城址の由来

「この地は元伊佐庭岡と呼び今から千3百余年の昔聖徳太子が鶴駕を駐め道後温泉碑を建てたてられたところである。後建武年間に至り河野氏はその居を高縄山麓の河野郷からここに移し城を構えて湯築城と称した。蓋し伊佐庭岡は湯築岡とも呼ばれたからであろう。爾来同氏の本拠となっていたが天正十三年豊臣氏の征討により滅土の悲運を見た。それから多少の沿革を経て慶長七年加藤嘉明が松山城を築くに当たり城址の礎石を勝山に搬び去って後は全く廃虚となり藩政時代には修竹鬱々たる鳥鷺の棲みかと変わりはて世にお竹薮と称せられた。然るに明治二十一年愛媛県はこれを公園とし大に景観を整え花卉を植えて四民聚楽の所とした。かくて昭和二十八年に至って県立動物園が設けられた。惟ふに河野氏累世五十余代その中には水軍の将として外寇を斥壌した武将河野通有と念仏絶対主義の時宗を創めて衆生済度の実を挙げた聖層一遍上人の如き偉人を輩出した。共に我が郷土の栄誉と称すべき事である。」

昭和三十四年十二月 建立寄贈一遍もなか本舗
一遍堂主 新田兼市

句碑(内藤鳴雪)

(くひ−ないとうめいせつ−)

句碑(内藤鳴雪)

元日や 一系の天子 不二の山

内藤鳴雪 


「内藤素行先生寿碑
 先生俳名鳴雪ヲ以テ天下ニ著ルゝモ蓋シ老餘ノ韻事(風流)ノミ 先生素ト漢学ニ造詣深ク最モ力ヲ教育ノ事ニ尽サル 初メ愛媛県学務課長後文部省参事官ニ歴任シ又常磐会寄宿舎監督タルコト多年 郷党育英ノ功没ス可ラズ 世人其人格ノ崇キヲ嘆称セザルハナシ 大正七年八月」

 ”めでたい元日だな。万世一系の天皇を「いただく、神々しく美しい富士山のあるこの国は”
 新年の句として知られたこの句碑は、内藤鳴雪70歳を祝って大正7年に建てられた。正岡子規の句碑が最初に建てられた昭和8年より15年早く建てられたことになる。
 鳴雪が常磐会寄宿舎の監督をしていたころの寄宿生、勝田主計(当時の大蔵大臣)らが発起人となって建てたもの。10月27日の除幕式には、鳴雪も夫人とともに帰郷して出席し、盛大に行われたとのこと。
 17年ぶりとなったこの帰郷が、鳴雪最後の帰郷となった。

武家屋敷1
武家屋敷1
武家屋敷1

展望台

展望台

岩崎神社

岩崎神社

内堀土塁

内堀土塁

武家屋敷2

武家屋敷2
武家屋敷2
武家屋敷2

外堀(南側)

外堀(南側)

見学路

見学路

内堀(南側)

内堀(南側)

外堀土塁(南側)

外堀土塁(南側)

土塁展示室

土塁展示室

平面表示

平面表示

内堀(東側)

内堀(東側)

外堀(東側)

内堀(東側)

外堀土塁(東側)

外堀土塁(東側)

遮蔽土塁

遮蔽土塁

グラウンド

グラウンド

ゆうぐ広場

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外堀(北側)

外堀(北側)

子規記念博物館

子規記念博物館

内堀(北側)

内堀(北側)

内堀(西側)

内堀(西側)

桜の標本木

桜の標本木
桜の標本木

 

いこいの広場

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外堀(西側)

外堀(西側)

4.土塁展示室

土塁内部の構造や築造過程がわかる土層の断面は、全国的にも珍しい展示です。

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3.武家屋敷2

外観復元した建物の内部を展示施設に。中世の道具類や職人の活動、また、湯築城跡の発掘調査の参考とした全国の遺跡を紹介しています。

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2.武家屋敷1

発掘の成果をもとに間取りを推定し、当時の工法で復元しました。建物内には、当時の生活の様子や調度品などを再現しています。

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5.庭園区・上級武士居住区

身分の高い上級武士の居住区と推定されるエリアです。広々とした芝生広場には遺構が平面表示されています。

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6.石造湯釜(県指定文化財・通称「湯釜薬師」)

湯釜の宝珠には、河野通有の依頼により一遍上人が「南無阿弥陀仏」と書いたとされています。また、河野通直の命による温泉の効験の刻文も残る貴重な文化財です。

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1.湯築城資料館

発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の生活についてパネルや出土遺物を展示。また、映像で復元整備の様子なども紹介していきます。

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1.湯築城資料館

発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の生活についてパネルや出土遺物を展示。また、映像で復元整備の様子なども紹介していきます。

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道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

道後公園西口

1湯築城資料館

発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の生活についてパネルや出土遺物を展示。また、映像で復元整備の様子なども紹介していきます。