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道後公園で開催しているイベントをご紹介します。ぜひご参加ください!
※開催日やイベント内容は変更されることがあります
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(くひ−こばやしいっさ−)
寝ころんで 蝶泊らせる 外湯哉
小林一茶
寛政7年(1795)、俳人小林一茶は、その師二六庵竹阿の旅の跡を慕い、松山の俳人 栗田樗堂らを訪ねて、松山に来た。その旅日記(寛政7年紀行)によれば同年2月1日のところに「道後温泉の辺りにて」と前書きしてこの句がある。
1996年は小林一茶(33歳)が松山に来遊して丁度200年になる。
一茶の来遊は寛政7年(1795)と翌年の二度にわたる。最初の来遊のとき松山に俳諧で有名な栗田樗堂(47歳)がいた。一茶はこの樗堂と意気統合し、多くの句を残している。寛政8(1796)年には半年以上に渡って樗堂宅(二畳庵)に滞在し、その交遊は並々ならぬものがあったと想像される。
(くひ−まさおかしき−)
足なへの 病いゆとふ 伊豫の湯に
飛びても行かな 鷺にあらませば
子規
「昭和ニ十六年九月十九日 子規五十年祭」
子規歌集「竹の里歌」の明治31年(1898)「故郷を憧ふ」九首のうち七首目の歌で、明治31年8月9日付けの新聞「日本」に載せられた。昭和26年には、まだ「竹の里歌」の原本が見つからず、子規の文字を一字ずつ集めてこの碑に刻んだのである。
「もし私が鷺だったら飛んで帰り、足の病を治したいのに」という意味の歌であって、病床の子規の望郷の歌である。
明治28年、松山愚陀仏庵から帰郷の途中の10月22日、大阪で結核菌のため左の腰骨が痛み出し、以後没年までの間、殆ど病床の人となり「足なへ」の状態であった。
道後温泉には、その昔、足を傷つけた白鷺が、岩間から出るお湯に足を浸しているうちによくなったという伝説があり、歌の「鷺にあらませば」もそれに因んだもの。
(くひ−まさおかしき・なつめそうせき−)
ふゆ枯れや 鏡にうつる 雲の影
子規
半鐘と 並んで高き 冬木哉
漱石
「冬枯れや」の句は,明治28年冬の句で、子規句集「寒山落木」及び「病余漫吟」 にも見える。この句は子規「雲百句」の一句で、子規が余戸の俳人森円月(1870-1955)のために、「愚陀仏庵」で書き与えたもの。子規の自筆拡大。
「半鐘と」の句は、明治29年1月3日午後、子規庵で、鳴雪、(森)鴎外、瓢亭、 漱石、虚子、可全、碧悟桐と催主(子規)の8人が会しての初句会での漱石の句。 この句を後日、漱石が余戸の円月の家で同家にあった子規の書に応じて円月に送ったもの。この句は子規庵の句会の4点句(最高点)であった。
この日、鴎外がこの句会に参加しているが、遅参しており、「霰」という題の
おもひきって出て立つ門の霰哉
鴎外
という句のみで、2点句であった。
この碑は,国際ロータリークラブの第267回地区年次大会を記念して、昭和61年11月2日に建立したもの。
(くひ−はたのしんぺい−)
教へたるままに唯行く遍路かな
この碑の除幕式は昭和37年11月23日行われた。79才の晋平も病躯をおして列席した晋平は松山で発行される俳誌(柿)を10年余にわたって主宰し、松山の俳壇の長老であった。晋平は、明治17年7月3日山口県萩市に生まれ、萩中学校を卒業、海軍兵学校を志願したが身長が足りず、断念し大阪商船入社、大正14年高浜支店に来て以来酒井黙禅に俳句の手ほどきを受け、塩崎素月の(葉櫻)や(ホトトギス)に投句虚子に師事して昭和20年10月(ホトトギス)の同人、20年秋酒井黙禅 あとを受けて(柿)を主宰し愛媛ホトトギス会長として昭和36年病に倒れるまで13年間その職にあった。昭和31年12月、古希を記念して句集(初凪)を上梓した。(初凪)の虚子の序に(永く松山に住み松山人に知己多く、松山の地理に精しく、松山人より松山を愛好し時によると松山言葉をつかう。)とある昭和40年5月3日没 80才御幸町千秋寺に眠る。
松山文学碑物語 鶴村松一 から
(こうのしじょうしひ)
「河野氏元越知氏、孝霊天皇の裔に出ると称す。応神天皇の朝伊予小市国造に任じられる後裔、居を河野郷に遷し以て氏とし高縄城に據り冶を伊予に布く承久の乱、河野通信、義兵を京畿に出して精忠を励んで元冠の後、伊予の師、河野通有有進撃不逞をたおして国難を救う、また一遍上人出て時宗を開き聖教ここに萬生に薫る。建武中興には土居通増、得能通綱支族より出て君の忠節に殉す。後更に居を道後に遷し湯築城を築く河野通直の時に至り豊臣氏の攻める所となりて滅ぶ。時天正十三年九月、正に六十余代1,300有余年亦なりと云うべし頃日慈光令教主。空覚尼この現地に巡錫しかつての桑海の変を悼む。同信相寄りここにこの碑を建立し以て世に河野氏の遺績を伝ふ。昭和十六年十一月建之空覚尼」
(ゆづきじょうしのゆらい)
「この地は元伊佐庭岡と呼び今から千3百余年の昔聖徳太子が鶴駕を駐め道後温泉碑を建てたてられたところである。後建武年間に至り河野氏はその居を高縄山麓の河野郷からここに移し城を構えて湯築城と称した。蓋し伊佐庭岡は湯築岡とも呼ばれたからであろう。爾来同氏の本拠となっていたが天正十三年豊臣氏の征討により滅土の悲運を見た。それから多少の沿革を経て慶長七年加藤嘉明が松山城を築くに当たり城址の礎石を勝山に搬び去って後は全く廃虚となり藩政時代には修竹鬱々たる鳥鷺の棲みかと変わりはて世にお竹薮と称せられた。然るに明治二十一年愛媛県はこれを公園とし大に景観を整え花卉を植えて四民聚楽の所とした。かくて昭和二十八年に至って県立動物園が設けられた。惟ふに河野氏累世五十余代その中には水軍の将として外寇を斥壌した武将河野通有と念仏絶対主義の時宗を創めて衆生済度の実を挙げた聖層一遍上人の如き偉人を輩出した。共に我が郷土の栄誉と称すべき事である。」
昭和三十四年十二月 建立寄贈一遍もなか本舗
一遍堂主 新田兼市
(くひ−ないとうめいせつ−)
元日や 一系の天子 不二の山
内藤鳴雪
「内藤素行先生寿碑
先生俳名鳴雪ヲ以テ天下ニ著ルゝモ蓋シ老餘ノ韻事(風流)ノミ 先生素ト漢学ニ造詣深ク最モ力ヲ教育ノ事ニ尽サル 初メ愛媛県学務課長後文部省参事官ニ歴任シ又常磐会寄宿舎監督タルコト多年 郷党育英ノ功没ス可ラズ 世人其人格ノ崇キヲ嘆称セザルハナシ 大正七年八月」
”めでたい元日だな。万世一系の天皇を「いただく、神々しく美しい富士山のあるこの国は”
新年の句として知られたこの句碑は、内藤鳴雪70歳を祝って大正7年に建てられた。正岡子規の句碑が最初に建てられた昭和8年より15年早く建てられたことになる。
鳴雪が常磐会寄宿舎の監督をしていたころの寄宿生、勝田主計(当時の大蔵大臣)らが発起人となって建てたもの。10月27日の除幕式には、鳴雪も夫人とともに帰郷して出席し、盛大に行われたとのこと。
17年ぶりとなったこの帰郷が、鳴雪最後の帰郷となった。
発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の生活についてパネルや出土遺物を展示。また、映像で復元整備の様子なども紹介していきます。
1湯築城資料館
発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の生活についてパネルや出土遺物を展示。また、映像で復元整備の様子なども紹介していきます。